平凡な読者、キム・ドクシャの日常
キム・ドクシャ、28歳、独身。彼は地下鉄でウェブ小説を読むことを趣味とする、ごく平凡な会社員だった。
「ドクシャ」という名前には、「読者」と「一人息子」という二つの意味がある。父親は彼が一人でも強く生きられるようにと願って名付けたが、実際のドクシャは、孤独で目立たない人生を送っていた。
ある日の退勤途中、地下鉄で同じ会社の人事部に勤めるユ・サンアと出会う。普段は自転車通勤をしている彼女だが、その自転車を盗まれたため、珍しく地下鉄に乗っていたのだった。
隣同士に座った二人は、ぎこちないながらも会話を始める。
努力するユ・サンアと、物語を読むドクシャ
帰宅中の車内でもスペイン語を勉強するユ・サンアに対し、ドクシャがスマートフォンで読んでいたのはウェブ小説だった。
彼女から好きな作家を尋ねられても、ドクシャは自分の趣味を率直に話せない。ユ・サンアが挙げる文学作品の作家たちと、自分が親しむファンタジー小説との間に距離を感じていたからだ。
やがて話題は、二人が入社してからの一年間へと移る。
ドクシャの契約期間は終わりに近づいていた。一方、ユ・サンアは海外の取引先との仕事で成果を上げ、すでに正社員へ昇格していた。
同じ時期に入社した二人だったが、その境遇には明らかな差が生まれていた。
ドクシャは、彼女が努力を重ねてきた一方で、自分はインターネットの小説ばかり読んできたと振り返る。そして、ユ・サンアのような人物こそ、物語の主人公にふさわしいのだと感じる。
彼女はドクシャを気遣い、自分が使っている学習アプリを教えようとする。しかし、彼はその申し出を断った。
自分の人生は「現実」という物語
車内で母親と楽しそうに過ごす少年を眺めながら、ドクシャは考える。
もし自分の人生が、今とは違うジャンルの物語だったらどうなるのだろう。現実ではなくファンタジーの世界なら、自分も主人公になれたのだろうか。
しかし、彼はすぐにその想像を打ち消す。
自分が生きているのは、あくまで現実というジャンルだ。そこでの自分は主人公ではなく、一人で生きるだけの存在なのだと。
ユ・サンアとの会話を終え、再び小説に戻ったドクシャだったが、先ほどまでのようには読み進められない。現実の重みを意識してしまったからだった。
そんな彼のスマートフォンに、一通のメールが届く。
午後7時、消えた小説と謎のメール
送り主は、ドクシャが読み続けてきたウェブ小説『滅亡した世界で生き残る3つの方法』の作者だった。
メールには、午後7時から作品が有料化されること、そして役に立つものを贈るという趣旨のメッセージが書かれていた。添付ファイルも一つ付いている。
自分の名前のとおり、読者として生きることも悪くない。作者から直接メールを受け取ったドクシャは、そう感じて少し心を弾ませる。
時刻は午後6時55分。有料化まで残り5分だった。
自分が唯一の読者だと考えていたドクシャは、作者を励ますために祝福のコメントを残そうとする。
ところが、作品のページはすでに消えていた。
検索しても見つからず、掲示板さえ跡形もない。有料化を目前に控えた作品が、何の予告もなく消えるという不可解な事態に、ドクシャは戸惑う。
そして、その直後だった。
地下鉄を襲う異変――世界のジャンルが変わる瞬間
突然、地下鉄の照明が消え、車内が暗闇に包まれた。
列車は激しく揺れ、金属音を響かせながら急停止する。驚いたユ・サンアはドクシャの腕を強くつかみ、乗客たちも騒ぎ始める。
ドクシャは、よくある事故か何かだろうと考え、ユ・サンアを安心させようとした。
やがて車内放送が流れ始める。ドクシャは事情説明と謝罪があるものと思っていた。
しかし、放送から聞こえてきたのは、乗客たちに逃げるよう訴える切迫した声だった。
放送は途切れ、車内はさらに混乱する。列車の前方ではまばゆい光が走り、異様な音が響く。そして暗闇の中から、何かが近づいてくる。
その瞬間、ドクシャが目にした時計は午後7時を示していた。
続いて聞こえてきたのは、惑星系8612の無料サービスが終了し、メインシナリオが開始されたことを告げる謎の声だった。
それは、ドクシャが現実だと信じていた世界のルールが変わる瞬間だった。
物語を読むだけの存在であり、自分は決して主人公になれないと思っていたキム・ドクシャ。そんな彼の日常が、予想もできない形で終わりを迎える。
彼の人生は今、現実というジャンルから別の物語へと変わり始めたのだった。